緒方センター長の沖縄ノート

与那覇善吉 宜野湾村で死亡 19歳

1945年4月5日、一人の青年が死亡した。海を埋めつくした米軍の艦隊からの艦砲射撃で吹き飛ばされたのだろう。ひ孫にあたる女性Sさんらと、沖縄本島南部摩文仁の丘の麓にある平和の礎を訪ねた。6月23日の慰霊祭で毎年首相が訪れる場所だ。手前の小さな建物に電子ボードが置いてある。そこに読谷村、宇座、と入れると戦死者の名前が浮かぶ。与那覇善吉に合わせボタンを押すとプリントされた紙が出てきた。生まれた日、亡くなった日が分かった。生年月日は大正15年(1926年6月15日)、亡くなったのは昭和20年(1945年)4月5日。まだ19歳だった。Sさんが連れてきた息子は10歳、生まれた日は6月13日。善吉青年から5代を経て、72年の時間を隔てて生まれ変わったかのようだ。

二人で、ひいおじいちゃんの名前が刻印された碑をなでながら、冥福を祈っていた。

(Sさんから、善吉さんはひいおじいちゃんのお兄さんらしい。海岸で―艦砲射撃を受けて―死んだようだ。おじいは戦争について聞いても話してくれない、とメールが来た)

4月1日に沖縄本島に無血上陸した米軍は2か月以上かかってようやく摩文仁の丘に達した。圧倒的な軍事力の差に比べれば日本軍はよく食い止めた、ともいえるだろう。日本軍は首里の本拠地を捨て、南へ南へと移動した。そこから戦死者が急増する。巻き添えにされた民間人の数は12万人。当時の人口の約4分の1にあたる。

第32軍の首脳陣は6月23日早朝自決(22日という説もある)。丘の頂に黎明の塔という碑が建っている。その形はなんと武士の切腹の姿に似せてある。摩文仁の丘の頂上から、彼ら戦争責任者たちは平和の礎の20万人を超す戦死者たちを睥睨している!

摩文仁の丘の壕に避難していた人たちは8万人。平和の礎が横たわる丘は、そこから新しい沖縄が生まれたルネッサンスの地でもある。

かたわらの沖縄平和祈念堂には高さ12メートルの仏像が死者の魂を鎮めるために手を合わせている。その裏に清(ちゅ)ら蝶園がある。国内最大の蝶・オオゴマダラが室内を飛び回っている。

ギリシャ語で蝶のことをプシケという。魂の意味もある。重要なイベントの幕開けに鳩を飛ばすように、ここではオオゴマダラを放つ。真っ白に黒の模様が付いた蝶たちは死者の魂をなぐさめるようにゆらゆらと平和の礎の上を飛ぶ。

台湾の塔

丘の頂を降りたところに真新しい塔があった。「台湾の塔 総統 蔡英文」とある。2016年8月15日に建立された。碑文には「台湾の塔は、先の大戦に台湾から参戦し散華された軍人軍属などの御霊を慰霊・顕彰する碑であります。本来あるべき摩文仁の丘に戦後70年もの間建てられずにいた事に心を痛めた日台両地の有志の浄財を集めることにより建立されたものです。当時台湾から勇んで参戦した20万人余の軍人軍属の内、約3万柱の戦没者と1万5千余人の行方不明者は共に我々の同胞でした。時代が変ろうと、人が自らの命を犠牲にして他者を救わんとした行為は、民族や国家の如何を問わず、人道の範として賞され語り継がれなければなりません。(以下略)」

日台両国と書くべきところ、日台両地と刻まなければならなかった。建立にたずさわった人たちの無念さを感じる。

写真を撮っているとサングラスをかけた男性が現われた。3本の煙草に同時に火を付け塔に捧げている。日本人の習慣ではない。同行の数人も台湾からの訪問者だろう。聞いてみると男性は日本人だった。横笛演奏家 矢野實の名刺を頂いた。屈強な男性は台湾原住民アミ族の彫刻家、ほかに2人の台湾人。日本人がもう一人、舞踏家の太田直史さん。

アミ族は台湾原住民の中では一番多く16万人を超える民族集団。スポーツ選手ではローマ五輪の十種競技銀メダリスト揚伝広。プロ野球中日ドラゴンズの郭源治などがいる。

アミ族は、戦時中は高砂義勇軍に属し、日本軍に協力した。というよりその時代は日本人だ。

軍の食糧を運んだ時、いっさい背負っている食糧に手をつけず餓死した兵隊もいる、という。規律の正しさに驚く。戦後、食糧管理法を守って餓死した裁判官が有名だが、それ以前にもこんな例があったのだ。

全員で塔の前で記念写真を撮った。矢野さんからこれから自宅でみんなで食事をするので来ないか、とお誘いを受けた。東アジア連帯のために!ありがたくお受けすることにした。

そして2日後、6月6日、県立博物館・美術館ホールでアミ族の彫刻家の作品披露のパフォーマンスがあった。彼の名前は希巨蘇飛(シキスフィン)。E’tolanの魂、と題した巨大な彫刻。E’tolanは故郷の地名。楠から彫られた巨大な翼を持った人が地に祈っているように見える。ほかに精霊と題された大きな木片など。飛行機に乗らないので船で運んできた、という。案内文には

「殆どの戦亡者の魂が今もなお南十字星の星空の下で徘徊している

作者はその思いを作品の形にして、今でも流離っている魂を

E’tolanに呼び戻そうと・・」。

アミ族の正装に近い黄色と黒のTシャツ、半ズボン、頭に黄色い手拭、赤いポシェットをたすき掛けにしている。高い声で叫ぶような歌。終わる間際に舞踏家が動きはじめる。白い上下のゆったりした服をまといゆっくりと踊る。重力を感じさせないような舞。フルートが奏でるメロディは天上の世界を感じさせる。

作家はじっと踊りを見つめている。踊りは胎児、飛ぶ人を思わせるポーズ、再び身を縮め、そしてゆっくりと体を伸ばして生を終える姿を思わせる。15分ほどの踊りが終った時、作家の眼に涙がにじんでいた。「南洋で散った村人たちに翼を付けて故郷に戻してあげたい」と語ってくれた。舞踏家の太田直史氏は10年ほど前、ヨーロッパで評判になったらしい。顔までも死者を思わせる白塗りにしてオーケストラの伴奏で踊った。フルート奏者の矢野實氏はマクサンス・ラリューに師事した。ジャン・ピエール・ランパルの孫弟子にあたる。ランパルのフルートは私の学生時代(半世紀も前)、上野の音楽会館の一番上の席で聞いたことがある。矢野氏はワルシャワ音楽院などでも学びチェコのプラハ・フィルハーモニーのフルート奏者も務めていた。

希巨蘇飛(シキスフィン)氏の作品は県立博物館・美術館のホールで6月25日まで展示されている。ホールなので入場券は不要。

これと並行して6月21日から大浦湾を取りまく辺野古の3地区を起点に島嶼音楽祭が始まる。23日(慰霊の日)には読谷村文化センター、24日には宜野座村文化センター、25日には沖縄県立博物館・美術館ホールでコンサートやワークショップが開かれる。

この島嶼音楽祭はH.O.T.Islands Music Festivalというタイトルだ。H(花蓮)O(台湾)T(台東)Islandsの省略だ。花蓮市は与那国島の対岸にあり両地は姉妹関係にある。

このレポートはいずれニコニコ動画のUIチャンネルでもご紹介予定。


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